みずたまのうそばかにっき

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家事について不公平感をもたない理由とは

最近読んだブログの女の子は、同棲中の彼氏が家事をしないことを非常に論理的に愚痴っていた。

最近読んだ朝日新聞の家庭欄では、家事をシェアすることについて考察していた。

 

わたしもかつて結婚していたとき、家事の負担について思い悩んでいた。

いろいろやりすぎて、追い詰めて、うつ病にもなったりした。

(まぁ、家事のことだけが原因じゃないけども。)

おいらは、聖母じゃない!と息巻いて爆死したりもした。

 

今のわたしは、家事について、不公平感を感じていない。

それは、なぜなのかなぁと思った。

 

わたしが、聖母になってしまったのか?

とも思ったけど、なんだか違うようだ。

今日もくら寿司のウニを下痢便みたいだと言って家人に怒られたりしているので聖母じゃないように思う。

 

家事の負担が減ったのか?

とも思ったけど、わりと負担してるようだ。

掃除洗濯は大抵わたしがやってるし、犬猫の世話もほとんどわたしがやってる。ご飯も作っているし、洗い物もやってるぜ。

 

じゃぁなんで、わたしは家事について、昔のように「わたしばっかりモード」にならないのか。

 

ちょっと考えられることは、日々のご飯に関しては、わたしオンリーじゃなくて家人も考えることが当たり前な暮らしだからかなと思った。

今日何にしようと考えること、そして作るだけじゃなくて洗い物までの一連の作業は、毎日のことなので結構負担なのかもしれない。

 

掃除洗濯は時間があればできることで、時間がなくなってきたり、具合が悪かったりすると、できなくなってイライラしたりするんだけれど、まぁそこは置いといて、ミテミヌフリナリ!というのをうつ病になったときに身につけたわたしなので、掃除洗濯に関してはそこまで負担じゃないわけだ。

 

犬猫の世話は、うぬぬーてめーらもうんこ片付けろよ!と思うときもあるが、犬猫をみると許しちゃうあいつらの可愛さで時給1000円以上の価値みたいな仕事である感覚もない作業であるので負担じゃないわけだ。

 

でも、やっぱメシだよな。

メシって3食もあるんだからね、結構な負担だと思う。

うちは、朝は個人個人、昼も個人個人、夜はみんなで考えて作りたい人が作るって感じだから、メシについて考えることがないのが本当にラクなのである。

 

 

昔、インフルエンザで寝込んでいて、夜中に何回も着替えて、ついにはジーンズで寝てて、それでも洗濯もしてくれなくて、焼肉弁当を買ってきて精をつけろとか言われて、喉乾いて起きてきたら、作りおきの麦茶のボトルが空になってテーブルに置いてあったときは、泣きながら結婚指輪を外して、寝ている旦那さんに投げつけたけど、旦那さんは大いびきで寝ていて、それだけが原因じゃないけど、離婚して、今大きな声で言えることは、やっぱり一緒にいられる人とそうでない人がいるっていうことなんである。

 

本当のことをいうと、家事に不公平感をもたない最大の理由は、一緒にいる人が洗濯してあげたい人だからなのである。

掃除しても苦にならない人だからなのである。

わたしのやったことに対して「ありがとう~」とわかってくれてる人だからなのである。

 

家事をシェアするってことは、実際にやることを半分こするんではないんじゃないかなぁと思うのだ。

きちんと見ていてくれて、わかってくれて、もっと言えばありがとうって言ってくれたら、それもシェアしてることになるんだと思うのだ。

当番制にしてサボる人が出てきてイライラしたりして愚痴言うのより、やれる人やりたい人がやって、えらいね、ありがとうって言いあうほうがみんな気分がいいんじゃないかなと思うのだ。

 

これは、たぶん、本当に仮説で、妄想で、失礼なこと承知で言っちゃうと、

家事について相手に不公平感をもつのは、

本当は別のことにイラってるんじゃないのかなというのも思う。

例えば、ハグが足りないとか、満たされない部分があるんじゃないのかな。

だから結局「熱き思い」がなくなっちゃったってこと。

「熱き思い」がないと人は人のために何かをするのが嫌になっちゃうと思うんだ。

わたしは、常に「熱き思い」を持っていたいのさ。何にでも。誰にでも。

「熱き思い」なくなった時点で、オサラバということなのだ。

 

とゆうわけで、家事について不公平感を持たない理由まとめ。

1.熱き思いが共有できる相手と住まうこと

2.メシについて悩まなくていいこと

 

ではでは。