みずたまのうそばかにっき

うそっぽいほんとや ほんとっぽいうそを かきとめる

きょう、おだじまたかしさん というひとの きじをよんだわけで

そのむかし、わたしは、さかのうえに すんでいて、そのさかは、ひじょうにけわしく、やまあり やまあり やまあり やまあり、かいだんあり、やまあり という あんばいであった。

わたしがこどものころすんでたところは、やまのふもとの いなかまちで、きたへすすめば のぼりざか、みなみへすすめば くだりざか、という あんばいであった。

 

わたしは、のぼりざかが だいきらいでありつつ、やまもなく、ただのっぺりとした この かんとうへいやが だいきらいである。

けれども、こどもは、さかのあるまちで そだつべきではないだろうか とさえ おもうのだ。

へいや では、つらいつらい のぼりざか のあとにある そうかいかんが、あじわえないので、がんばれば ごほうびがある という きぶんが もてない。

それに、やっとのおもいで のぼりざかを のぼったのに、くだりざかで スピードを あげすぎて おおけがをする という しっぱいも しないので、がんばっても おおきな だいしょうを せおうことも ある という わりと たいせつな おしえを みをもって たいけんできない。

また、ともだちのいえから ローラースケートで かえってみよう などと おもいつき、とちゅう、いつものみちが かなりの のぼりざかであることを かんじはじめたが、のぼりざかで つまさきだちしたら きっと うしろにたおれるであろう と、めまぐるしく かんがえつづけ、けっきょく、でんしんばしらに だきついた というような たんじかんで じぶんのあたまで かんがえて こたえをだし、こうどうする などという けいけんも できないので、あたまをつかわずに ばかに なってしまうとおもうのだ。

さかみち というのは、にんげんの あたまを よくするものなのだ。

 

そういうわけで、ベビーカーで どこにでも いけるひとは へいやそだちの ひとであると すいそくするのである。

よのなかが えいえんに たいらであると おもいこまなければ、タイヤのついたのりもので、ちいさいガキと でかけるなんてことは なかなか できないと、おもうのだ。

スケボーや ローラーブレードなら、すぐに かかえられるけれど、ガキと いくじグッズのはいった おもいかばんを かかえて、ベビーカーをたたむのは、ぶつりてきに むりなのだ。

たたまないで、ガキをのせたまま、ベビーカーをかついで、かいだんを のぼりおり しているひとを みたことがあるけれど、えきをでてから、10キロくらいも へいちを あるかなければならない とか、いま ベビーカーアスロンの れんしゅうちゅうなんです とか、とくべつな りゆうがないかぎり、あのような くぎょうは したくない。

 

そういうわけで、たぶん、でんしゃのなかに ガキいりベビーカーを のせてくる ひとが おおくいて、しゃかいもんだいに なってしまうのは、どの ちほう でも、へいやをはしっている でんしゃだと おもうのだ。